オフィスビル賃貸業の草分けとして歩んできた100年。
「⼊居者に安⼼‧安全を届けることが責務」、オフィスビル建築に対する不変の精神
⼤阪を拠点に、オフィスビル賃貸業を⽣業としているダイビルは、2023年10⽉に創⽴100周年を迎えました。100年前というと、「⼤正浪漫」や「⼤正デモクラシー」に象徴されるように、明治以降に⼊ってきた⻄洋の芸術や思想、⽣活様式が⽇本の伝統⽂化と融合し、現代へと続く⽂化基盤が形成された⼤正時代の末期です。そしてダイビルが誕⽣した⼤正12年(1923年)は、関東⼤震災が起きた年でした。
江⼾時代には豊かな芸術⽂化と⾷⽂化が醸成され、明治時代後期から⼤正時代にかけて⽇本橋花柳界として華やいだ⼋重洲は、この⼤震災によって甚⼤な被害を受けます。しかし、時の内務⼤⾂である後藤新平を中⼼とした壮⼤な復興策が進められ、昭和4年(1929年)に東京駅⼋重洲⼝が開設されると、様々な企業やビジネスパーソンが全国から集まり始めました。そして、⾼度経済成長期には中⼩規模のオフィスビルが林⽴して、⽇本経済をけん引する中⼼地へと発展していきました。
⽇本を代表するビジネス街としての印象が強い⼋重洲ですが、ビル群の間隙を縫うように⾛る細い裏路地を覗くと、⼩料理屋の電飾看板や植木鉢の緑で彩られており、時代ごとに姿を変えてきた“⼋重洲”という街の勇ましさが窺えます。
“過去”を尊重して“今”を創る、その柔軟性の⾼い⼋重洲にあって、何世代にも亘り愛されてきたオフィスビル、それが昭和42年(1967年)に完⼯した「⼋重洲ダイビル」(以降、旧⼋重洲ダイビル)です。黒御影石張りの柱とアルキャストとブロンズ色のガラスによるカーテンウォールで構成された灰褐⾊の壁⾯に⽣まれる陰影や、垂直性を強調した柱型、窓周りのテーパー型など、細部に⾄るまでこだわり抜いた独創的なデザインのオフィスビルでありながら、重厚感と気品のある佇まいが街との調和を叶えていました。そんな旧⼋重洲ダイビルが今、建て替えの真っ只中にあります。営業課で主任を務める中野拓⾺⽒は、この建て替えプロジェクトについてダイビルの歴史を振り返りながら、次のように語ります。
「オフィスビルは建てて終わりではありません。建ててからの時間の⽅がずっと⻑く、街の⾵景の⼀つとして存在し続けます。ダイビルは100年の歩みを通して、街に馴染みつつも埋もれない個性を持ち、街づくりの起爆剤、ひいては時代を拓けるような、未来を先取りしたオフィスビルづくりに挑戦し続けてきました」
ダイビルの出発点となったオフィスビルは、⼤正14年(1925年)に完⼯した⼤阪市北区中之島に建つ旧「ダイビル本館」で、⼤阪では初の耐震構造を有した建築物でした。耐震構造を採⽤した経緯について、中野⽒はこう話します。
「⼤阪の旧ダイビル本館が完⼯する2年前に発⽣した関東⼤震災では、倒壊した⽊造家屋や⽕災によって多くの犠牲者が出てしまいました。そうしたなかで、丸の内に建てられていた⽇本興業銀⾏本店の建物には耐震構造が採⽤されていたため、ほとんど損傷がなかったそうです。このような経験から、旧ダイビル本館には耐震耐⽕構造を採⽤し、建物内部の主要な壁を強固な耐震壁としました。関東⼤震災での社会的な教訓もそうですが、これまでに様々な⾃然災害に直⾯してきたダイビルだからこそ、オフィスビルの耐震性や安全性には特に注⼒しています。『企業に安⼼‧安全を届けることが責務である』という想いは、オフィスビル建築の⻑い歴史の中で培われた“ダイビルらしさ”の⼀つであり、現在にも受け継がれている不変の精神です」
耐震構造を採⽤した旧ダイビル本館の他にも、ダイビルの先⾒性の⾼さを⽰すオフィスビルは多数あります。エレベーター、階段、湯沸室などを中央部に集中して配置するセンターコアシステムを採⽤した旧⽇⽐⾕ダイビル1号館(昭和2年完⼯)や、当時普及していなかった冷房設備を設置して従来の常識を覆す快適性を実現した旧⽇⽐⾕ダイビル2号館(昭和6年完⼯)、そしてSDGsが注⽬される遥か以前から⾃然との共⽣や保護に着⽬し、⽇本で初めて「屋上樹苑」を設置した⼤阪市北区堂島の旧新ダイビル(昭和38年完⼯)などは、その代表的な例と⾔えるでしょう。
中野⽒は、「⼋重洲ダイビル建て替えプロジェクトに関しても、これまでの経験値と旧⼋重洲ダイビルを設計した建築家‧村野藤吾の『建築物の社会的機能とともに建築と人間の関係性を考え抜く』という価値観を継承しつつ、時代が⼤きく変化しても⾊褪せない先進的なオフィスビルを⽬指しています」と語ります。⼋重洲ダイビルは、ダイビルが⻑い歴史の中で培った技術と想いを集約したオフィスビルであり、この建て替えは次の100年を⾒据えたプロジェクトなのです。