この地が文化の発信地として発展していった水脈をたどる
日本橋川に面する大手町ゲートビルディングは、大手町エリアから見て神田エリアの入口にあたります。神田といえば、落語家の古今亭志ん生が生まれ、作家の幸田露伴が暮らしていたなど文化的なエピソードが多く残されたエリアでありながら、神田祭に代表されるように、今なお賑やかな江戸っ子の活気が感じられる一面も有した街です。
神田の街には、どのような趣があるのか。三菱地所株式会社の小鴨主事は次のように語ります。
「この街がこれだけ長い歴史を紡いでいるのは、神田で生活している人々がいつも新しい文化を取り入れ続けてきたからだ、と感じています。例えば、江戸時代には藍の染物屋さんが集まり、明治時代には多くの学校がつくられたことに端を発して古書店が多く立ち並びました。最近では、多くのカレー屋さんが集まっていることから『カレーの聖地』と言われることも。
長い歴史の中で、新たな文化を柔軟に受け入れ、そして発信してきたからこそ、この街には活気があふれているのだと思います。実際に、神田の街の人々と対話をしていても、新たに出店するお店やプロジェクトに対して否定的ではなく、興味を持って受け止めていただけているという印象を受けます」
神田には、新しい文化だけではなく、「神田明神」など古くから大切にされている場所や、習慣がしっかりと根付いています。神田に暮らす人々の心の核となっているような伝統的な部分はきちんと後世へ受け継ぎながらも、新しく生まれたり、外からもたらされた文化にも寛容であったりする──神田という街がもつこのような特徴が、小鴨氏のコメントから読み取れます。
もう少し歴史を深掘りしてみましょう。三菱地所株式会社の勝田副主事は、大手町ゲートビルディングの計画地の歴史をこう語ります。
「大手町ゲートビルディングが面する日本橋川の河岸は、昔『鎌倉河岸』と呼ばれており、船から物資を荷揚げする場所でした。江戸城を建てるための木材や石材、さらに食材も荷揚げしていました。その結果、食にまつわる文化の発信地となった歴史があります。その後も、水上交通の要衝として栄え、昭和に至るまで建材の荷揚げが行われていました。つまり、この場所は江戸時代から近代に至るまで情報や文化の入口になっていたとも言えます」
神田には、創業100年を超える飲食店や酒の卸売店などが多く見られます。鎌倉河岸が賑わっていた頃から、長い時間をかけて人から人へと紡がれてきた暮らしや営みが、やがて文化となり、現在の「神田エリア」を形成していったと言えるでしょう。このエリアの魅力について、勝田氏はこう語ります。
「このプロジェクトを担当することになり、改めて神田の歴史を学びました。そして、時代毎に新しい文化を取り入れながら、変容していくこの街のことを、以前にも増して好きになりました。伝統や習慣は大切にしながらも、新しい挑戦や文化に寛容なこのエリアだからこそ、私たちのプロジェクトもきっと受け入れていただけるのではないかという期待があります。このプロジェクトがきっかけで、このような神田の魅力を多くの方々に伝えられると嬉しいですね」
神田エリアは、伝統ある祭りなど、活気ある地域文化の継承を行いつつも、時代毎に新しい文化を受け入れ、発信をしてきた街です。その柔軟さが、この街の魅力の一つとなっています。